スパイ“ベラスコ”が見た広島原爆の正体

 


■ 以下に『スパイ“ベラスコ”が見た広島原爆の正体』から抜粋したものを。


スパイがくれた一通の手紙がある。筆者の手元に届いたのは、今から20年ほど前、20世紀末のことだった。差出人はアンヘル・アルカッサル・デ・ベラスコ。第二次大戦中に暗躍した、ユダヤ系スペイン人の元ナチスのスパイである。手紙は広島に落とされた原爆の知られざる“顛末”を簡略に述べたものだ。曰く、戦時中に開発されたナチスの原爆がアメリカの手に渡り、それが広島に投下された。この“奇談”を、べラスコが私に明かしたのは、1982年ごろのことだった。もしもそれが真実なら、ナチス原爆の行方をどうやって、どこまで知ったのか。その詳細は追って手紙で知らせてくれる約束だった。ところが、その2年後に届いた手紙は、筆者の期待を見ごとに裏切っていた。


「原爆の秘密については、これまであなたに話した以上の内容はない」


手紙は、そんな文面で始まり、しかも内容は、前回、口頭で語った話をなぞっただけの「まとめ文」に終わっていた。原爆の話はもう喋らないというわけだ。それはべラスコの過去を考えてみればもっともなことだった。筆者は、あれこれ問うのはやめた。べラスコは知り得た秘密を語らないことで生き長らえてきた。つまり、沈黙が安全保障、いうなれば生命維持装置だったからである。問い質すのをやめた理由はもうひとつ。それは彼の持論にあった。


「スパイが入手した情報に、客観的事実を求めるのはナンセンスだ。自分の発言は自分自身が保証したのだから、他人から保証を求められる筋合いのものではない。世間でまことしやかに使われている、客観的事実などという言葉ほど当てにならぬものはない」


この言葉を一理あると認めたのである。その反面、筆者の腹の中はやり場のないモヤモヤで満杯になってしまった。それにしても1982年のあの日、べラスコが唐突に切りだしておきながら、今度は手のひらを返すように黙りこくってしまったあのナチス原爆の話は、いったいなんだったのか。疑問がつまった腹を撫でつづけているうちに、とうとう「そのとき」を迎えてしまう。べラスコの死である。世紀をまたいだ2002年、べラスコは97歳で大往生した。


「大切な秘密は墓場まで持っていく」


べラスコは口癖どおり、この一件の詳細を黙して世を去った。原爆そのものがべラスコの自尊心を傷つけかねない因果な“産物”だったから、これ以上は語りたくなかったのだ。筆者はそう勘繰ることにした。

ナチス原爆の“秘話”は荒唐無稽にも見える。と同時に、人類の歩みにつきまとった“業”を正面きって明かす話にも思える。だが、核は今なお、人々の自由を縛る恐怖の道具でありつづけており、そこに“賞味期限”はない。

べラスコが鬼籍に入って3年目がすぎた2005年、筆者は腹の中に抱えたこの原爆話を吐きだして、彼の墓前に手向けることにした。ただ彼が墓の中へと持ち去った「大切な秘密」を、古い手紙から類推するためには、スパイもので知られる、作家ファーゴ(ラディスラス)の次の言葉を乗り越えねばなるまい。


「秘密諜報機関は歴史を変えることはあっても、歴史学者に影響を与えることは皆無だ。学者の作る歴史書や指導者が語る回顧録の中にスパイの顔は見えず、その存在はとるに足らぬもの、忌み嫌われるものとして無視されてしまう。諜報員らの恩恵に浴した政治家や外交官ならびに将軍たちが過去を語るとき、最後までかつて世話になったスパイを隠してしまうのである」


とはいえ、その反対にスパイが金や自尊心のために守秘義務を放棄したり、私怨から「真実」をねじ曲げてしまう場合がないとも限らない。高度な秘密などと称して、歴史をミスリードする“陰謀”もありえるからだ。


これが、1982年にべラスコから届いた「まとめ文」である。


あなたの参考になる原爆情報は、私がすでに述べ、書き記したことにつけ加えるものはわずかだ。

①ドイツの新型爆弾は、ペーネミュンデの工場で完成した。爆弾をどこでどう使うのか、爆弾の製造にかかわった連中に使途は明かされなかった。彼らの中にはイタリア人専門家もいた。彼らは後に、その爆弾が広島で使われたことを知った。
②爆弾は1943年4月21日、チェコスロバキアボヘミア地方にある原生林(セルバ)で、実験に成功した。実験の最高責任者はハベルムル氏。彼は当時のドイツで、最も革新的兵器の開発研究者で構成されたグループのリーダーだった。
③ペーネミュンデ市の工場で完成した新型爆弾2個は、その後ベルギーのリエハに移送された。そこから爆撃機に搭載して、ロンドンとリバプールの両市にそれぞれ投下する予定だった。だが投下しなかった。なぜなら、フューラー(ヒトラー総統)が、「死体はもうこれ以上は不要だ」と厳命したからだといわれた。
④ベルギーでロンメル(将軍)の動向を逐一把握していたアプヴェール(ドイツ国防軍諜報部)の工作員から、2個の新型爆弾が1944年11月にロンメル将軍の手で、アイゼンハワー将軍に渡されたとする情報が入った。ロンメルの裏切り行為は、SS情報部のワルター・シュレンベルグ指揮下の秘密諜報員(エージェントVIC13)も裏づけている。ロンメル将軍はSSの手で処理された。敵に渡った2個の新型爆弾は、その数か月後にアメリカ軍の手で広島・長崎に投下された。
⑤戦後間もなく、ドイツの新型爆弾が連合軍に密かに渡された経緯を知る複数のドイツ人らが、ハベルムル氏やベルギーで敵側に原爆を渡した旧ドイツ軍人らを追跡調査した。だが、追跡者たちの意図と行動は、CIAの手で完全に断たれた。ハベルムル氏はソビエト軍に拉致され、ブレスラのミテ工場に留置された。彼はその後、モスクワに送られて消息不明になっている。

アンヘル・アルカッサル・デ・べラスコ 1984年1月29日


手紙には、別の価値があった。ひとつは、1982年にべラスコが漏らした話と、その内容はピタリ一致していたことだ。この対話を筆者は録音テープに残していた。テープの内容と手紙の概要は寸分も違っていない。記憶の精度にも優るもうひとつの価値は、原爆定説に裏があると思わせたことだ。何事にも表裏はある。べラスコは、あっけらかんと原爆定説の、いわば裏の部分を指摘している。その価値は小さくない。

いわゆる一般常識なるものが、実は、だれかに根気よく丁寧に、しかも意図的に育まれた常識だとすればなおさらだ。歴史の舞台裏で生きた男が、やれ常識を疑え、認識を見直せ、などとわめいてくれているのである。常識が秘話を疑えば、秘話もまた常識を疑わせるというわけだ。もしかして世間の常識人は、とんでもない常識を背負わされて、それに気づかずに生きているのかもしれない。そう考えれば、べラスコが唱えた“念仏”には意味がある。だが、常識や定説の壁は厚い。


これから記すのは、1982年のとある日の午後、スペインはマドリード旧市街にあるマヨール広場のカフェテラスでべラスコと交わした、ナチス原爆に関する対話のすべてである。


Q「広島に落とされた原爆は、本当にナチス製なのか。アメリカ軍がナチス製の原爆を転用した、ということか」
A「そういうことだ。実際のところ、アメリカの原爆は未完成だったのだ。それで、ドイツ軍の原爆を使って日本に投下したのだ」


Q「ドイツの原爆をアメリカに渡したのか」
A「そのとおりだ」


Q「ドイツ原爆の情報を、いつ、どこで、どうやって知ったのか」
A「1936年、リスボンに滞在中のウィンザー公夫妻をドイツに誘拐する作戦があった。その作戦会議の合間に、ドイツ国防軍情報部長官カナリス(ウィルヘルム)とSS情報将校のシュレンベルグから聞いた。彼らは原爆とはいわなかったが、なんでもドイツは想像を絶する新型兵器を手にしたという。私はその情報を、ドイツ軍情報部アプヴェールの諜報部員やイギリス諜報部員らも知っているかと尋ねたが、シュレンベルグもカナリスも答えなかった。そういえば、マーヘンという物理学者がいた。彼はヒトラーの友人で、新型兵器とその製造に精通していた男だった。私は新型兵器が製造されているらしいことを、マーヘンの言動から感じていた。カナリス長官とシュレンベルグが、私に明かした新型兵器の一件を私は信じた。そのときは製造場所までは聞かなかった。当時、チャーチルは全欧破壊計画とノルウェーの重水炉施設の粉砕命令を下していた。その情報をキャッチした私は、それを直ちにベルリンに報告したが、なんの反応もなかった。ドイツ国防軍情報部のアプヴェールにもその情報を渡したが、そちらからもなんの返事もなかった。1940年、日本はすでに対米戦に突入していた。日本はナチスが新型兵器を所有したことについては知らなかっただろう。私が日本のためのスパイ役を引き受けたころのことだったから、新型兵器の情報は日本に伝えた。当時はすでに、英米共同で原爆開発に着手していた。実験はイギリスで繰り返されていたが、使える原爆にはならなかったのだ」


Q「ドイツがその新兵器を製造したのはいつごろからか」
A「1940年代の初めごろからだ。その新兵器はまだ不完全だったが、驚異的な破壊力の爆弾らしいと聞いた。私の周辺の諜報員らは、その新兵器が爆弾なのかどうかすら知らなかった。爆弾の実験はチェコスロバキアで実施したと聞いた」


Q「チェコでの実験詳細は?」
A「知らない。その事件を知っている人間は、世界中でほんの数名しかいないだろう。数名というのは、実験に直接携わった人間のことだが」


Q「では、新型爆弾が原爆だったと知ったのはいつごろなのか」
A「そいつがとてつもない威力のある新兵器で、それを使えば戦争を終わらせるのも可能だということだった。1943年、私はアメリカに潜入したが、実はそのときアメリカの原爆開発の様子を知り、初めてあのドイツ製新兵器が原子爆弾だったと確信できた。私は普段は、マドリードとドイツの間を往復していた。私が渡米するときは、部下に暗号文を手交するか、直接会話を必要とするときに限られていた。これは話しておいたほうがいいと思うのだが、1941年から43年の間に、私がアメリカに入国した回数は3回、正式入国が2回で、残りの1回はメキシコのティファナからテキサスに密入国した」


Q「1943年までにナチス原爆が完成したことを、イギリスは知っていたか」
A「ノー。イギリスはドイツが原爆を開発中だとは知っていた。ノルウェーの重水炉施設で、原爆製造のための重水を貯蔵していることも知っていた。だからチャーチルは、特殊部隊をノルウェーに潜入させて、重水貯蔵所を破壊しようとしたのだ。だが、原爆が完成したことまでは知らなかっただろう」


Q「ドイツ原爆の完成と実験成功を、いつごろ知ったのか」
A「覚えていない。時期は忘れたが、その数が2個だということは知っていた。2個のほかにも原爆があったにせよ、それらはソ連が持ち帰ってしまったのだろう。ドイツ軍は2個をリエハ(ベルギー)に運んだ。それをロンメル将軍に手渡した事実は後で知った」


Q「2個の爆弾が原子爆弾だと完全に知ったのはいつか」
A「1945年だ。1944年ごろには、もはやドイツ軍は崩壊同然だった。ヒトラー政権はすでに力を失っていた。ヒトラーの周辺では、1944年に戦争終了させる計画が謀られていた。その年に私がベルリンに行ったとき、どうして2個の原爆をイギリスに投下しなかったのか、私はドイツ軍上層部に噛みついたのを覚えている」


Q「もう一度聞く。2個の新型爆弾の完成情報はあなたの耳にどう届いたのか」
A「いつ完成したのかは正確には知らない。しかし完成爆弾をベルギーに運んだこと、数回の実験で多数の死者が出たこと、その2個の新型爆弾が敵軍のアイゼンハワー将軍に渡されたことは聞いた」


Q「新型爆弾つまり原爆の製造場所はどこか?」
A「ペーネミュンデだ」


Q「工場の規模は?」
A「大規模だった。そこでは、V1・V2ロケットなどが製造され、ロンドン攻撃などに使われた。チェコ以外の諸工場で製造された新兵器類の肝心な部分は、そのペーネミュンデ工場で組み立て、完成されていた。ドイツ軍は“UFO”もここで製造していた。当時、すでに時速3000キロの推力をもつ別の飛行体もそこで製造されていた」


Q「ペーネミュンデの工場に入ったことは」
A「ない。場所は知っていたが」


Q「なぜ2個だったのか」
A「2個のほかにも新型爆弾は製造されていた。爆弾の改良と完成を急ぐ計画があった。完成ずみの原爆2個の存在は、その計画の全貌を知ったとき、納得できた」


Q「2個の原爆の完成は軍事機密だったのか」
A「当然だ。製造責任者らは新兵器の完成を、ヒトラーに口頭で伝えていた。書面で報告すれば秘密は漏れる」


Q「イギリス情報部はドイツの新型爆弾の完成情報を入手していたのか」
A「それは先ほど答えた。ありえない。われわれはイギリス側に新型爆弾へのアプローチなど絶対にさせなかった。彼らには知り得ないことだ。とはいえ、秘密工作活動の内容を一般人に説明したところで、誰も信じまいが」


Q「ペーネミュンデで製造に携わった人物たちの名前は」
A「ハベルムルの名前しか覚えていない。たとえ知ったところで、それが本名だとはいえまい。製造関係者らは皆、それぞれ偽名を使っていたからだ。たとえば、そのうちのひとりはイタリア人だとわかっていたが、それ以上の手がかりはなかった。工場周辺の町には、OSSやKGBが潜り込んでいた。だが、技術者らは情報を漏らさなかったのだ」


Q「ドイツ原爆がたどった経緯は?」
A「完成後はベルリンからの命令を待った。そして2個の爆弾をベルギーに移した。ベルギーの戦場のどこかでアメリカ軍に引き渡され、本国へ運ばれていった」


Q「ベルギーのどの地域のどんな場所に保管されていたのか?」
A「保管場所は知らない。いずれにせよ、ベルギーは小さな国だ」


Q「だれがどんなルートでベルギーに移送したのか?」
A「ドイツ空軍機を使った」


Q「だれの命令でベルギーに移したのか?」
A「ゲーリング元帥だ」


Q「どんな目的で移したのか?」
A「イギリス投下には、ドイツからよりもベルギーのほうが近い。つまり、射程距離が短い場所を選んだのだろう」


Q「ベルギーへの移転配置をヒトラーは知っていたか」
A「もちろんだ。ベルギーに移したのは1944年4月だと思う」


Q「ベルギーへの爆弾移動はロンメルが担当したのか」
A「いや違う。ペーネミュンデで完成した爆弾は、ゲーリングの指示でベルギーに運ばれた。ベルギーで原爆を受け取って保管したのがロンメルだ」


Q「実験現場をチェコスロバキアに定めた理由は?」
A「それは知らない。ただ、チェコにはペーネミュンデと同様の工場があった。そこで部品なりを補う必要があって、それでチェコが選ばれたのかもしれない」


Q「爆弾の大きさなどを知っていたか」
A「知らない。ただ広島・長崎に投下された原爆は、ドイツで完成した爆弾をそのまま使ったものだとは思えない。アメリカの科学者たちがドイツ製原爆の一部を改良したうえで、広島と長崎に投下した可能性もある」


Q「なぜ、ロンメルは米軍に渡したのか。彼の裏切りはいつごろから考えられていたのか」
A「ロンメルの動機やその実行タイミングについては、何も知らなかった。もし事前にその企てが耳に入っていれば、ロンメルに実行を断念させることができただろう」


Q「ロンメルが敵に原爆を渡した謀反をいつ、どうやって知ったのか」
A「実行されてしばらく後のことだ。ドイツのガルミス・パルテン・キルヘンで仕事中に、仲間のオベルべイルがその一件を伝えてきた。ロンメルが爆弾を渡した数日後に、連合軍の総攻撃が始まったのだ」


Q「アメリカ軍は原爆をどんな方法で本国に移送したのか」
A「当時、欧州戦線でのアメリカ軍の動きを知るのは不可能に近かった。われわれの暗号電波はキャッチされ、身動きもできず、仕事にならなかった。おそらく、ベルギーで受け取った原爆を、アメリカ軍は船舶ではなく空輸で本国に送ったのだろう」


Q「ドイツ製爆弾2個が、間違いなくアメリカ軍に渡されたと断言できるか」
A「断言する。しかし、アメリカ側はこの事実を無視するか、または否定するだろう。なぜなら、この2個の原爆がアメリカ国内に運び込まれるまで、アメリカ製原爆は未完成だったからだ。ナチス原爆が実在したというビッグニュースを知ったら、きっと日本人は驚くことだろう。この事実を世界が知れば、トルーマン大統領が捏造した原爆神話は根底から崩壊するだろう」


Q「ロンメルの処刑はヒトラーの命令か」
A「ヒトラーが自ら命令を下したかどうかは知らない。SSのシュレンベルグの命令だろう。ヒトラーロンメルが処刑された後に、ロンメルの裏切りの事実を知らされたかもしれない」


Q「ドイツは結局、原爆を使えなかったが?」
A「当時のドイツ空軍はイギリス空軍に制空権を奪われていた」


Q「原爆とロンメルとの関係は?」
A「ロンメルは当時、ベルギー方面担当の司令官だった。彼は保管中の原爆を米軍に渡した。その秘密を知るドイツ軍人はいなかった。裏切ったロンメルは処刑された」


Q「ロンメルが裏切ったことを知ったときのヒトラーの反応は?」
A「知らない。知りたくもない。いえることはアメリカ側に原爆が渡ったために、イギリスはアメリカに依存せざるを得なくなったということだ。アメリカは原爆で格別の利益を得たが、イギリスはまるで商売にならなかった。この戦争における真の意味の敗戦国は、イギリスだ。帝国の権益を失ったではないか」


Q「ロンメルチャーチル首相にではなくて、なぜアイゼンハワー将軍に渡したのか」
A「わからない。ただ、チャーチルは反イギリス的精神の持ち主だったと思う。チャーチルノルウェーの重水炉の破壊命令を出した際、同時に欧州全都市の破壊もつけ加えている。チャーチルは欧州人の無差別殺戮を命令した男だ。そんな男にではなくて、アメリカに渡すほうがまだましだ。ロンメルはそう考えたのだと私は思いたい」


Q「アメリカに渡った爆弾はその後どこへ?」
A「ロスアラモス。アメリカ西海岸にある原爆研究所だ」


Q「これまでの原爆情報は日本の諜報機関TOのエージェントが確認したのか?」
A「そうだ。この点は白か黒かの単純な答えですむことだ。連絡メモは使わなかった」


Q「では、原爆がロスアラモスに届いた事実をどうやって確認したのか?」
A「まずは暗号無線だ。入手した情報を、通常はロスアラモスの近郊からメキシコのティファナに向けて、即座に発信した。その電波を大西洋上に待機させた船上で中継し、さらにスペインに転送する。これが私の組織の通信回路だった」


Q「原爆情報を伝えた電波は、スペインでキャッチして確認したのか?」
A「いや、私は1944年6月以降、ベルリンにいた。ロスアラモス発信の一報を受信した、ティファナの部下から連絡があったのだ。それをマドリードからベルリンの私に無線連絡してきた。急遽スペインに帰国して、あらためてティファナに無線で情報内容を確認した」


Q「無線はどう伝えてきたか」
A「詳細は忘れた。アメリカに爆弾が運ばれてきたことを知らせてきたのだ。私は即座にその内容をベルリンと日本側に報告した」


Q「アメリカに運ばれてきた爆弾が、ドイツ製原爆だとエージェントは事前に知ったうえで、それで打電してきたのか」
A「そうだ。フライデーと呼ぶ有能な修道士が、その情報を入手して送電してきたのだ」


Q「その修道士は西海岸に配置したエージェントか」
A「秘密情報員が修道士に化けていたのではない。本物の修道士をエージェントに使っていたのだ」


Q「どうやってその修道士は、その爆弾がドイツ製で、ドイツから送られてきたものと判断できたのか」
A「教会の懺悔室だ。われわれはすでにドイツ原爆の完成を知っていた。しかるに、その一件はわれわれの仕事の最重要事項として扱っていたからだ。牧師は懺悔室で科学者や軍人から情報を取った」


Q「では、原爆がベルギーから大西洋を渡った時点の情報もキャッチしていたのか」
A「いや、アメリカに爆弾が届いた時点の情報だ」


Q「原爆は最初にアメリカのいったいどこに届いたのか」
A「ニューヨークだ」


Q「アメリカ内にドイツ原爆が到着した情報を、日本側に伝えたときの日本の反応は」
A「私はまずベルリンに知らせた。当時は戦況が深刻な状態だった。それでベルリン(の日本大使館)はひと呼吸おいてから、東京に知らせたのだろう」


Q「ロスアラモスに2個のドイツ製原子爆弾が届いたとする情報は、確定情報として日本側に発信したのか?」
A「いや、仮定、つまり推測としてだ」


Q「では、ロスアラモスの部下から大西洋を越えて、ベルリンのあなたのもとに無線で届いたその情報も、仮定推測の情報だったのか?」
A「現物を確認していないから、そのとおりだ。むろん、東京にはわれわれのほか、たとえば、イタリアやオーストラリアやその他の国々からも、情報が届いていたことだろう。しかし、その時点で、日本は何をする術もない状態だったのだ。反応も何もなかった」


Q「ドイツは完璧な原爆実験をしたのだろうか」
A「さっきの話を思いだせ。だれがベルギーから原爆を運んだにせよ、当事者は、自分たちが運んでいる荷物の中身が何なのかも知らずにいたのだ。結局、広島・長崎に原爆が投下されて、初めてその荷物が原爆だったと知ったのである。製造に携わった者たちも、それは同じだ。新兵器(原爆)の精度や実験成果は、別の人間のみが知ることだからだ」


Q「ナチス原爆の完成を知る存命中の学者、軍人ほかの人物をあなたは知っているか」
A「ジャーナリストはいないだろう。開発製造に関与した学者(従事科学者)は大勢生存しているはずだ。中にはアメリカやイタリアでも生きている。しかし彼らは、自分たちがどんな爆弾を完成させたのか、当時はあまり知らなかっただろう。結果的に広島、長崎の原爆投下で初めて知ったのだと思う。当時、アメリカの原爆開発科学者は、自分たちの原爆開発の進捗速度が、ドイツよりも遥かに遅れていることは知っていただろう」


Q「反ヒトラーの抵抗運動組織(レジスタンス)は、ナチス原爆の存在を知っていたか」
A「知らなかっただろう。実際は原爆の知識を完璧に備えていた科学者は、ドイツに4人ほどしかいなかっただろう。しかもその4人は、自分の核物理の研究がどこに向かっているのか、それさえ知らされていなかっただろう。まして、レジスタンスなどには、原爆のことなど何もわからなかったはずだ。それにアメリカ側の科学者たちでさえ、こちら側(ドイツ)の情報(原爆開発)を詳しく知らなかったように、ドイツ側もアメリカの原爆開発事情を完全に知っていたわけではなかったのだ」


Q「開発に従事した4人の学者、ならびに技術者の名前は」
A「ハベルムル氏以外の名前を私は知らない。彼を含めた他の科学者は多分、本名も戸籍もすべて抹消され、別人として存在して研究開発に従事していたはずだ。しかし、もしも本人の身分が知れるとすれば、それは終戦時点でハベルムル氏を連れ去ったソ連が明かすだろう。ドイツ原爆の開発に貢献した技術者たちは、ロシア軍に捕えられたからだ」


Q「ヒトラーは原爆の詳細を知っていたのか。ドイツ軍人らはどうか」
A「ヒトラーは、原爆の詳細については知らなかっただろう。1944年に反ヒトラーの動きが始まったことについて話しておこう。連合軍の総攻撃が始まり、われわれはヒトラーを隠さねばならぬ立場になった。そこで、軍人たちとの共同作戦が始まった。われわれ秘密諜報員は、軍人との会話を原則的には許されていなかった。たとえ話しても、天気のことや女の話など、たわいもない話をするだけだ。ヒトラーが危機的な立場に追い込まれていたそのとき、私はミュンヘンで軍上層部と突っ込んだ話をもちだして、それまでの掟を破ったことがあった。私は彼らに、ドイツは決定的な爆弾をもっている、戦は勝ち目がある、そう告げて彼らの士気を鼓舞した覚えがある。だが、彼らはなんの反応も示さなかった。敗戦の気運に気落ちしていたこともあろうが、彼らはドイツが新型爆弾を所有していることなど知らなかったのだ」


Q「あなたと反ヒトラー勢力との接触はあったのか」
A「いや、直接にはなかった。最初のころ、私は反ヒトラーの動きをよく知らなかった。もし知っていれば、わたしはその反勢力の動きを押えにかかったと思う。だが、軍部内の反ヒトラー気運は、1941年末にはすでに始まっていたのだ。それはドイツ軍がソ連軍を攻撃した時点で、もはや勝てる軍事力をドイツ軍が備えてはいなかったのに、攻撃を始めてしまった。その見当違いぶりを批判する勢力が、反ヒトラーの気運を高めたのだと思う」


Q「ところで、あなたの友人のペパーミントとは何者なのか?」
A「ある女性の愛称だ。彼女はアメリカのスパイで、またの名をロマノネス・コンデ伯爵夫人、本名ラテボーロ妃のことだ。ドイツ軍部内には反ヒトラー・反ナチズムの貴族勢力がもともとあった。ところで、このナチズムという言葉はヘブライ語だ。ユダヤ人が嫌みを込めて使う言葉だが、起源はドイツ語ではない。民主主義の気運をドイツ国内に作りだしたのは、ユダヤ人だ。ラテボーロ妃は、イギリス側ともコンタクトしていた女性だった。彼女は敵対する連合軍と枢軸軍の双方の情報組織に属していた女スパイだ。そして、ドイツのアプヴェールにも日本の憲兵隊にも情報を伝えていた人物だ。私は、彼女から入手した反ヒトラー・反ナチズムの動静を日本側に伝えた」


Q「その反ナチズム・反ヒトラーの気運が、連合国側に原爆を渡す背景になったのか」
A「そのとおりだ」


Q「2個の原爆以外のドイツ原爆がソ連に渡ったというのは本当か」
A「完成した爆弾をソ連が持っていったのではない。製造のノウハウ(人的資源)を持ち去ったのだ。終戦間際になって、ペネミュンデの工場からは完成した原爆ではなく製造者らを、自国の原爆開発に活用するために連れ去ったのだ」


Q「ソ連が持ち去った時期はいつか」
A「戦史年譜を見よ。盗んだのではなくて、ソ連軍がドイツを占領したからだ」


Q「ベルギーでナチス原爆がアメリカ側に引き渡されるときは、だれかが手伝ったのか」
A「知らない。なぜなら、最高機関は自前の組織でやるものだからだ」


Q「ベルギーでアイゼンハワーは原爆と知って受け取ったのか?」
A「アイゼンハワーであれパットンであれ、彼らの受け取ったものが原爆だと知っていたわけではあるまい。新型の驚異的な兵器だろう程度の認識はあっただろうが」


Q「ナチス原爆はなぜ、西海岸のロスアラモスに届けられたのか?」
A「アメリカの原爆開発研究所がそこにあったからだろう」


Q「運搬を目撃した一般人はいないか?」
A「重要機密品だからだれも知るまい」


Q「アメリカ政府や情報機関の関係者以外、民間人で原爆移転を知る人は」
A「知る人間はいるだろう。だが、私はその人物がだれだかは知らない。もちろん、ルーズベルトの周辺には多少存在しただろうが、そういた人物たちを私は知らない」


Q「チェコ、ベルギーのその場所を地図で指してほしいのだが」
A「自分に対してでさえ、疑いをもつのが私の職業だ。私にその職場を案内しろというのか。考えておこう」


Q「ナチス原爆の開発と移動の決定的情報を、あなたと交換した相手はだれか」
A「ドイツ国防軍情報部長官カナリスや科学研究者マイヤーらドイツ人だ。1943年4月か5月、マドリードのアプヴェールの隠れ家で、SS情報部長シュレンベルグも同席した場で、新型爆弾の話を彼らは私に話した。だが戦後の今となっては、どうやら彼らはその話をわざと私に囁いたような気もする。というのは、彼らはボム、つまり新型爆弾とはいったがアトミック(原爆)とはいわなかった。私はヌークリア(核)とアトミック・ボム(原爆)についての知識を、クラウスから後で教わった。カナリスとシュレンベルグらが私に漏らした新型爆弾とは、やはり原爆のことだったのだ。重大機密だというよりも、私がこの新型爆弾の存在を日本に伝えるのを見込んで、あえて私に原子爆弾といわずに新型爆弾だと語ったのだろう。通信傍受はお手のものの彼らだから。アメリカへの移動確認は、私の組織によるものだ。原爆がアメリカに移送されたときはもう、その新型爆弾が通常の爆弾であれ原爆であれ、何もかもがその時点ですでに終わっていたのだ」


Q「マドリードに置いたアプヴェールの隠れ家は、今でもあるのか?」
A「残っている」


Q「カナリスは、よくスペインに来ていたのか?」
A「そうだ。カナリスとはよく会った。カナリスはフランコ総統と会うために、戦闘機を自分で操縦して、よく来ていた」


Q「チェコで実験開発された新型兵器(1943年4月の実験)の成り行きは、絶えず監視していたのか?」
A「必要なときにする会話ですむことだ」


Q「チェコでの実験データを、戦後、アメリカは押収しているのか」
A「いや、それはないだろう」


Q「戦後に明らかにされたマンハッタン計画の記録では、広島投下用の爆弾は1945年7月16日、アメリカ西海岸から船積みされてテニアン島に運ばれたことになっている。同日、ロスアラモスでも実験がされたことになっている。今では常識とされているこれらの事柄をどう考えるか?」
A「私の対米情報網(TO機関)は、1945年初夏にはもう情報収集活動はしていなかった。事実上の解散は1944年7月7日。だから1945年7月16日の、テニアン島への原爆輸送もロスアラモス実験もTOは確認していない」


Q「ナチス原爆を証明する人物は、だれかほかにいるか」
A「ノーだ」


Q「資料・記録・メモ何でもいい。アメリカ軍があの日(8月6日)に、広島に原爆投下するのは不可能だった、と証明できる手がかりはあるか」
A「いったい、何回問えば気がすむのだ。すべてノーなのだ。お前は私の呟きまで疑うのか。私には、私の発言を保証する証拠など不要なのだ」


Q「私は自身の常識を疑わざるを得なくなるが?」
A「それはお前の勝手だ。私は世界連邦政府主義者だ。どこの民族も愛するし、疑いもする。文句はあるまい。」


ここで録音テープは切れた。

ナチス原爆の追加情報は文書でほしい。」

筆者の注文にべラスコは頷いた。

「もう喋ることはない」

そんな素気ない手紙が筆者の手元に届いたのは、その日から2年もあとのことだった。

3年前に鬼籍に入った親父べラスコの、生前の口癖を思い出した。曰く、


「国家とは、抽象概念が作りだした記号のひとつにすぎない。つかみどころのない形而上のその国家を、戦争の真犯人呼ばわりしてどうする。世間にはもっと、利口な生き物たちがいる。彼らは国家と呼ばれる架空世界を隠れ蓑に、その架空国家と国民の頭の中にある微妙な隙間を巧みに利用し、戦争を勃発させる。私益を国益だと人々に思い込ませることに長けたその生き物たちこそが、戦争の真犯人なのだ」



以上、『スパイ“ベラスコ”が見た広島原爆の正体』より抜粋。


広島原爆はナチス製だった
ベラスコの告白

ヒトラーは原爆を持っていた=ドイツ歴史家が主張

【ベルリン6日】これまでの定説とは違って、ナチス・ドイツは第2次大戦終結前に原子炉を建設し原爆を保有していたとの新説をドイツの歴史家が今月半ばに発刊する著書「ヒトラーの爆弾」で発表する。歴史家ライナー・カールシュ氏は同書で、原子炉は1944−45年には稼働し、核兵器の実験が親衛隊(SS)の監督の下にバルト海の島やドイツ中央部のテューリンゲン州で行われていたと述べている。
ヒトラーの爆弾」を出版するDVA社は6日出した出版案内の中で、ナチス・ドイツがあと少しで、世界初の実用的な核兵器の開発競争で勝てるところまできていたものの、空中から投下できるほどには開発が進んでいなかったと指摘している。カールシュ氏は、ドイツ初の原子炉がベルリン近くで稼働していた事実や、プルトニウム式の爆弾製造に関する41年以来の文書を発見したと主張している。
カールシュ氏によれば、ナチス・ドイツの原爆の破壊力は米国が広島、長崎に投下した原爆の足元にも及ばなかった。しかし、連合国のサボタージュと資金難にもかかわらず「汚い爆弾」の製造には成功し、テューリンゲン州での実験では捕虜数百人が死亡したという。〔AFP=時事〕(時事通信 2005/03/07)
http://homepage.mac.com/ehara_gen1/jealous_gay/atomic_bomb.html

ナチスが核実験」ドイツの歴史家が新説

【ベルリン=熊倉逸男】ナチス・ドイツ核兵器開発を実用化直前まで進め、核実験も実施していた−との新説を紹介した本「ヒトラーの爆弾」が十四日、ドイツで出版され、信ぴょう性をめぐり論議を呼んでいる。

著者のベルリン・フンボルト大学講師の歴史家ライナー・カールシュ氏によると、ナチスは一九四四年から四五年にかけベルリン近郊に原子炉を設置し、濃縮ウランを使った小型核兵器を開発。四五年三月三日、ドイツ東部テューリンゲンで核実験を行った。被害は半径約五百メートルにわたり、近くの強制収容所の収容者ら約五百人が犠牲になった。開発は、ヒトラーナチス指導層も承知していたという。

新たに発見された旧ソ連軍の史料や証言記録、実験場所とされる土壌から放射能が検出されたことなどを「核実験説」の根拠としている。

ドイツでは一九三〇年代から核開発が進められたが、ナチスは兵器化に熱心ではなく、ナチス核兵器保有を懸念した科学者らの訴えを聞いた米国が先んじて、原爆を開発した−というのがこれまでの定説だった。

独メディアは新史料発見を評価する一方、「核実験説」の説得力不足を指摘している。

中日新聞 - 2005年3月15日
http://www.chunichi.co.jp/00/kok/20050316/mng_____kok_____001.shtml

ナチス核兵器 図面あった」 独の歴史家らが発表

【ロンドン=岡安大助】第2次大戦中にナチス・ドイツが開発した核兵器の図面を発見したと、ドイツの歴史家らが1日発表した。粗いステッチのため実際に組み立てられたか不明。実用化の段階に達していたとはいえないが、「これまで考えられていたよりナチスの研究は進んでいた」としている。
発表したのは、ベルリンに拠点を置く歴史家ライナー・カールッシュ氏ら。英科学誌「フィジックス・ワールド」6月号に掲載された論文によると、図面はドイツかオーストリアの科学者が1945年5月のドイツ降伏後、個人的に書いたとみられる文書の中から見つかった。
この文書は核開発に関するリポートだが、タイトルや執筆した日付は記載されていない。カールッシュ氏らは「水爆研究に取り組んでいたことは明らかだ」と指摘している。
同氏は今年3月、旧ソ連軍の史料などを基に著書「ヒトラーの爆弾」を出版。「ナチス・ドイツが核実験をしていた」という新説を主張し、信ぴょう性をめぐって論議を巻き起こした。これまでは、ドイツの核開発は30年代から進められたが、ナチスは兵器化に熱心でなく、米国が先んじて原爆を開発したとされている。(東京新聞 2005/06/03)

http://homepage.mac.com/ehara_gen1/jealous_gay/atomic_bomb.html